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井戸の底で実験室

天才になるという欲望を挫折したので、凡人として生きる方法を模索している。

欲望、海、干上がり[妄想の断片]

 自分の気持ちを言葉にしたいという欲望があって、行きつけのバーに行く。

 オレンジ色の照明がスポットライトのようにカウンター内をぼんやりと浮かび上がらせている。狭い店だ。六人も入れば満員になってしまう。顔見知りのバーテンダーが微笑む。僕は彼のことを友達だと思っているけれど、カウンターを隔ててのこちら側と向こう側、木製の境目を行き来する金銭のことを考えれば、こういう言葉を当ててしまうのが正しいことなのかどうかはわからない。金で彼の時間の一部を買う僕の方から彼のことを友人と言ってしまうのは、なんだかとても下品な気がして、僕は彼を友達と呼べずにいる。

 冬は寒々しい店だから、雨の日は人が来ない。空から降ってきた雨粒とか水たまりを踏んだときに跳ねた水滴で濡れたコートを脱ぎ、室内の温度の低さに震えながら、しかしそれは雨のせいだというふうな顔をして僕は頼んだ熱い焼酎を口にする。焼酎に嫌な思い出があると言いながらも彼は僕のために焼酎をいれてくれる。それを僕は愛なのではないかと密かに信じている。恋じゃないよ。愛。

 他愛の無い世間話をする。僕は悩み事を話にきたのだと口にできない。それが彼に対して迷惑なことなのではないか、という考えが頭によぎって、ついに言い出せない。

 あのさ、と、沈黙のタイミングでついに言おうとしたところへ、バーのドアが開いて客が入ってくる。その瞬間に僕の言葉は腹の中へ戻り、元あったところより下へと落っこちていく。言葉をのみこむ。その行為はいつだって僕の欲望を殺す。

 僕は焼酎を流し込み、人の話を聞き流しながら、しかし頭の中では自分の悩み事をつぶやいている。たまに誰かが僕を見る。僕は微笑む。死にかけの欲望は、酒の海で満たされた腹の底から浮遊し漂っている。海に浮かんだ死体が流されるように。

 気づけば終電間近で、僕は数人の客とバーテンダーに「また来ますね」と言って、席を立つ。

 そして、冷たい雨の帰り道、もう少し飲んでおくのだったと後悔している。