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井戸の底で実験室

天才になるという欲望を挫折したので、凡人として生きる方法を模索している。

テレビと読書と恨みごと[テーマ:新しく始めてみたいこと]

 

 テレビの視聴は、無趣味な母の唯一の楽しみである。

 

 我が家は小さな賃貸アパートだ。八畳の中心を背の低いテーブルで区切り、私と母はそれを境界線にして二手に分かれて寝床にしている。テレビは母の寝床の方にあり、母の労働と睡眠の時間以外は常に点いている。番組はドラマかバラエティだ。NHKが点いているのは見たことがない。

 このテレビ番組の音が、私の読書の時間とはとても相性が悪い。耳がどうしても音を拾ってしまい、文字が頭の中に入ってこなくなってしまう。そう気付いたのは20代も後半になってからで、学生時代に家で本が読めない自分に泣いていた自分のことを思い出して虚しくなった。

 

 

 今でもシングルタスクとマルチタスクに関しては議論がある。一つのことに集中するか、二つ以上のことを上手に調整してこなすのか。私は仕事こそマルチタスクの方が気が滅入らずにできるが、読書に関してはシングルタスクだったようだ。スケジュールの中にルーチンを上手く配分して作業完遂を目指す仕事は現実的に流れる時間との戦いだが、本という別空間に埋没していく読書は現実と異なる時間への埋没である。子どもが生まれて本が読めなくなったという声を聞くが、それは親にとって子どもの声が強い現実性を帯びているからだろう。

 本を読んでいるときは現実とは異なる時空間を生きているが、しかしそこには肉体が必ずともなう。本の読み方は千差万別だ。音読に黙読、頭のなかで映像を作る人もいれば、文字で提示された概念を捉えて自己流の関数を作動させる人もいる。しかしその方法はどれも共通して運動している。口が言葉を発する、目が文字を追い走る。頭はイメージを生み出そうと呼吸したり、反射的に方程式や関連情報をたちあげたりする。

 肉体の駆使が読書に必須な条件であれば、心身が弱りきった鬱の人にそれが出来なくなる理由もよくわかる。本が誘う旅についていけるだけの体力気力が失われているのだ。読書は私を現実の時空間に連れて行ってくれるが、現実から離れるには十分な準備が要るというわけである。

 

 

「今の若い人は本を読まなくなった」という嘆きを上の年代から聞く。私の周辺でも読書をしない若者が増えたし、私自身もパソコンやスマホを手に入れてからは読書量が著しく減った。娯楽が増えたから若者が読書をしなくなったのだという意見をよく聞くけれど、どちらかといえば「本当にひとりになる時間が減った」が正しいような気がする。読書とはまた違う形で時間も空間も飛び越えられるインターネットというツールだが、SNSの発達により、ひとりになるというのはとても難しくなったと感じる。もっと言えば、インターネットの世界に身を置くことで、ひとりになることを忘れてしまったのではないか。

 

 本を読む。ふと息をついた瞬間、足元のスマホの点滅が目に入る。Twitterか、あるいはLINEの通知だろう。リプを飛ばしたあの人からの返事がきたのだろうか。あるいは飲みの誘いのLINEだろうか。そういえばアプリのスタミナは溜まっただろうか、今回はランキング戦だから少しでも時間を割いてプレイしなければ。スマホにまつわる細かい心配事によって、今まで読んでいた本の内容は流れてしまう。

 

 若人の読書のための時間を奪うのは、何もSNSだけではない。彼らが身を置く社会の過酷な環境が、本を読むための身体を奪っていく。社畜化した友人たちは口々に「読書量が減った」と話し、奨学金や生活費を自分で賄っている年下の大学生は読書どころではないと愚痴をこぼし、大学院生は教授の雑用を押し付けられて研究が進まず実績作りに悩む。外界の事情を割り切って読書に打ち込める人たちもいるかもしれないけれど、現実にはそれができない人間というのが大半だ。

 

 昔、大学の教授に「俺たちの頃は食べ物を買う金を惜しんで読書したんだ」と軽い説教を食らったことがある。ちょうど大学付近に母と一緒に引っ越して、ゼミ発表では「君の発表には中身がない」と言われて悩み、読書がうまくいかなくなっていた時期のことだ。真面目系クズの代表格である私は、そういうものかと思い、食べ物を買う金を全部本に回した結果、体重が40キロを切り、本を読もうという気力は失われていった。

 

 そもそも私が読書を始めたのは、母方の祖母の教育方針であった。孫に教育を与えようとしたのだろう。母はその言に従い、私に本を買い与えた。私は本を読む子どもになったが、母の褒め言葉を求めていた側面があるのは否めない。両親はテレビ派で、私だけが本を読むというのも、自分の自尊心を満たした。

  だから、両親の離婚と同時に自室を失い、テレビの音で本を読めなくなったとき、私のプライドはあっけなく崩れ去った。

 

 

 読書は色んな理由から尊ばれてきたが、それゆえに読書ができなくなるということは自信の喪失にも繋がる。ショーペンハウアーの「頭を使わない読書はクソだ!」という発言にならえば、行為が自信に繋がる読書はクソなのかもしれない。けれど、そんなクソな読書だって楽しいし、その継続が頭を使いたくなるような本との出会いへ導いてくれることだってあるはずだ。

  

 

 「本を読めない」と言う若者を前にしたとき、「本、普通に読めるでしょ」「楽しいじゃん」「役に立つぞ」「人生に深みを与えてくれる」という言葉をかけるだけで、相手は果たして本を開くだろうか? 彼・彼女がどのような環境の中に身を置き、どういう理由で本を手にとるのか。それを想像してみることは、読書とはまた別の現実を示唆してくれるだろう。そして彼らにかける言葉の選び方も変わってくるだろう。

 

 

 精神的にしんどかった学生時代だが、思い出してみれば図書館での読書は驚くほど頭のなかに入ってきたし、自尊心の満足という段階を飛び越えて夢中になった本も確かにあった。もしも「精神的にしんどいときは本を読めなくなるよね」「環境変えてみたら」と声をかけてくれる誰かがいたなら、自分の学生時代も随分変わったものになっていたのかもしれない。

 

 

 そんな後悔だらけの人生だが、穏やかな読書を再開するには間に合うようだから、学生時代に読めなかった本を新しい気持ちで開いてみることにする。それが私の「新しく始めてみたいこと」だ。