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井戸の底で実験室

天才になるという欲望を挫折したので、凡人として生きる方法を模索している。

(メモ)ミニ四駆を作っていて大変・苦手だと思ったこと

・説明書を読み間違える(部品と記号を一致させることができない)

・手順通りに作れない(気づけば工程をすっとばしている)

・シールがうまく貼れない(すぐ破れる)

・ワッシャーを挟み忘れる

 

 

『「複雑系」とは何か』 自分メモ

『「複雑系」とは何か』 吉永良正

 

・「複雑系」とは、現象におけるシステム(規則性)に還元され得ない諸要素との関連性のこと。有名なバタフライ・エフェクト(蝶の羽ばたきが世界にわずかな影響を与えるかもしれない)の発想もここに当てはまる。

 

・「複雑系」においてプロセスは不可逆なものになる。通常ならば現象は明白な原理と法則のもとに遡ることができるが、複雑系においてはそれができない。絡まって結び目のできた釣り糸は根気よく向き合えば解くことができるが、複雑系的に理解するならば釣り糸はそれ自体結び目を持たないのである。

 

・単純な規則から複雑な振る舞いをしていくのが「複雑系」の特徴

 

・KeyWord 「 複雑適応系」「カオスの縁」「自己組織化臨界」「創発」「セル・オートマン」

 

・本書ではサンタフェ研究所で活躍した複雑系の学者たちの、分野を超えていく科学に突き進む好奇心が描かれている。様々な分野で功績をあげる「コンピューターの始祖」フォン・ノイマンライフゲームの生みの親ホートン・コンウェー、コンピューターからの二度の啓示を受けて研究に飛び込んだラングトン……。彼らの人生を辿ると、それ自体が複雑系の混沌から功績が生まれたようで面白い。

 

・ラングトンの機械を一つの生命と見なす「人工生命」の発想や、トマス・レイの人工生命プログラム「ティエラ」、人口的にミーミルを造り出そうという試みとも言える「人工脳」……それらの試みは興味深いが、まるで人間が「神」になろうとしているようにも、あるいは「神」を造り出そうとしているようにも思える。2001年はとうに過ぎてしまったが『2001年 宇宙の旅』で描かれたHALの反乱も、笑いごととは思えなくなってくる。

 

・「複雑系」の視点から自分を捉え直すと、シンプルでわかりやすい前提に立っていることに気づかされる。法則を以て世界を捉えるのは便利だけれど、ある基準から取捨選択が行なわれて作り上げられた法則では細かい要素を拾いあげることができない。

 この本を読んで、その細かい要素こそが、「希望」と呼べるものなのではないだろうか。人間が組み立てた秩序の物差しを持ちつつも、たまにはそれを使わずに混沌に身を任せることも必要なのかもしれない。

 

・余談だが、現代演劇の「いま、ここ--hic et nunc」を重視する現象学的アプローチも、この複雑系の中に含まれる潮流のような気がする。

 

 

 

恨みごと以外が浮かばない

何かを書こうとしたとき、恨みごとしか出てこない。

 

恨む言葉以外しか生まれてこない人生は哀れだ、と、言う人がいるだろう。

 

いるだろう、としか言えない。

 

 

 

 

そこから始めれば良いよ、と、言ってくれる人が欲しかったのだとおもう。

呪い呪われ自縄自縛

 中学生のときにひたすらCoccoの曲を聴いていたのである。大きなCDプレイヤーを持ち歩き、一人で歩く間はイヤホンを片時も外さなかった。私がハマる頃にはCoccoは既に活動を休止しており、アルバムは表裏のベストまで出ていた。私は『ブーゲンビリア』を流すことが多かった気がする。当時、1年付き合った彼氏にフラれたのであった。

 フラれた理由は、元彼女のことが好きだから、だった。他にも努力しない性格をなじられた。

 呪いのように『カウントダウン』『首。』『走る体』『眠れる森の王子様〜春・夏・秋・冬〜』を流していた。元カノが好きだと私を彼に対しての呪いは、けれど、結局は自分に対する呪いでしかなく、ストーカーじみた片思いを見事に六年も引きずった。「一度呪えば末代まで」という性格は、「人を呪わば穴二つ」がセットでついてくる。

 Coccoの曲には相手を責めなじり呪う曲もあるが、当然、別れの曲もある。『樹海の糸』『やわらかな傷跡』『風化風葬』……アルバムは必ず未来につながるストーリーとして構成されていたけれど、私はそういう曲を拒んだ。胸に燃える憎しみを常に新たなものに磨きたかったのだろう。

 呪いをかける癖は相変わらずだ。他人の言葉が頭のなかで何度も反復されてしまう。それを振り払うために私は呪いをかけ、自分を殺していく。自傷しているつもりはないのだけど、それしか手段を知らないのだ。呪わないために楽しいことを探そうとしても、楽しかったことは呪いの記憶とともにある。楽しいことのそばには常に呪った相手が佇んでいる。楽しいことをしようとするたびに、影が怒る。努力しろ、努力しろ、努力しろ。努力が楽しいと言う人もいるのだろうけど、私はこれがいまだに上手くいかず、何かしようとすると、楽しもうとする努力でいっぱいいっぱいだ。

 別の彼氏のときに言われたことがある。

「そんな性格で、人生楽しいの?」

「努力しない奴は見捨てる」

 他人を呪わないために楽しもうとするが、楽しめないから、楽しむために努力をする。で、彼の言葉を正面から受け取って楽しむために努力をしようとすると、楽しめなければ見捨てられるのではないかという不安に繋がる。

 影が頭のなかに張り付いている。頭のなかの部屋を走り回っても、どこの部屋にも影がいる。日々、努力しろよの大合唱。

 こういう呪いを解くには何が必要なのだろうか。

 

父と小遣いとわたし

 祖母が小遣いをくれるという申し出を、断ったことがある。

 小学生くらいのときだっただろうか。確か私が何かが原因で不機嫌になり、札を渡そうとする祖母に、要らないと言った。ともかく私の機嫌を金で買おうとする祖母の態度が気に食わなかったのだと思う。

 私の頬に張り手が飛んだ。父の手だった。

「どうして受け取らない!? 受け取れ!!!」

 張り手と怒鳴り声はレストランを静まり返らせた。

 私は困惑と驚愕と怒りがないまぜになったような感覚にぼんやりとし、ごめんなさいと震える声で言いながら祖母の札を受け取った。私の屈辱の記憶である。

 

 

 家父長制において、父の権威は金を稼ぐ大黒柱であることに拠っている。酔った父はおさない子どもに「どうせおまえも俺のことを金を稼ぐやつとしか思っていないんだろう!?」と怒鳴った。今から思い返せばそれは父の祖父に対する眼差しだったのかもしれない。高度経済成長期の恩恵にあずかり、不動産業で成功した祖父に小遣いをもらいまくって消費ばかりを楽しんでいた父のことを、同情するべきなのかもしれない。

 金を受け取ることによって偽の愛情の共犯関係をきずくこと。

 祖母から金を受け取った瞬間に私はこれに同意した。

 父は私に「子どもらしくあること」を期待した。

 だから自由奔放に振る舞った。子どものワガママで大学に入った。家が金に困っているときに一人で旅行に行った。自分より学歴の高い娘の学問や本に興味を持った父に、苅谷剛彦の本をあてつけのように渡してやった。家を出るときに父の貯金を全部持ち出すべきだと母に提案した。金が無いと知っていて父から小遣いをもぎ取った。

 私は今も父の期待通りに子どもだ。時間は守らない、友達は離れていく、母の世話に甘えている。ああ、しかし、孤独に生活している父から小遣いは送られてこない。小遣いが足りない。

 

 

 

欲望、海、干上がり[妄想の断片]

 自分の気持ちを言葉にしたいという欲望があって、行きつけのバーに行く。

 オレンジ色の照明がスポットライトのようにカウンター内をぼんやりと浮かび上がらせている。狭い店だ。六人も入れば満員になってしまう。顔見知りのバーテンダーが微笑む。僕は彼のことを友達だと思っているけれど、カウンターを隔ててのこちら側と向こう側、木製の境目を行き来する金銭のことを考えれば、こういう言葉を当ててしまうのが正しいことなのかどうかはわからない。金で彼の時間の一部を買う僕の方から彼のことを友人と言ってしまうのは、なんだかとても下品な気がして、僕は彼を友達と呼べずにいる。

 冬は寒々しい店だから、雨の日は人が来ない。空から降ってきた雨粒とか水たまりを踏んだときに跳ねた水滴で濡れたコートを脱ぎ、室内の温度の低さに震えながら、しかしそれは雨のせいだというふうな顔をして僕は頼んだ熱い焼酎を口にする。焼酎に嫌な思い出があると言いながらも彼は僕のために焼酎をいれてくれる。それを僕は愛なのではないかと密かに信じている。恋じゃないよ。愛。

 他愛の無い世間話をする。僕は悩み事を話にきたのだと口にできない。それが彼に対して迷惑なことなのではないか、という考えが頭によぎって、ついに言い出せない。

 あのさ、と、沈黙のタイミングでついに言おうとしたところへ、バーのドアが開いて客が入ってくる。その瞬間に僕の言葉は腹の中へ戻り、元あったところより下へと落っこちていく。言葉をのみこむ。その行為はいつだって僕の欲望を殺す。

 僕は焼酎を流し込み、人の話を聞き流しながら、しかし頭の中では自分の悩み事をつぶやいている。たまに誰かが僕を見る。僕は微笑む。死にかけの欲望は、酒の海で満たされた腹の底から浮遊し漂っている。海に浮かんだ死体が流されるように。

 気づけば終電間近で、僕は数人の客とバーテンダーに「また来ますね」と言って、席を立つ。

 そして、冷たい雨の帰り道、もう少し飲んでおくのだったと後悔している。

 

 

(走り書き)自分に必要なこと

夜中に電話をかける相手が欲しい。

朝まで話をしてくれる相手が欲しい。

バカな話を笑わずに聞いてくれる相手を作りたい。

しかし自分は相手に同じくらいの誠実を与えられるだろうか。

相手に頼りきりにならずに、話ができるだろうか。

 

 

 

「私があなたを必要としている」という事実だけがあれば良いのかもしれない。

けれど、それが(自分にとって)本当に正しいのか、私は回答ボタンを押すのをためらっている。

 

 

 

ギリシア人たちは「より善き」を目指した。

「Sapere aude(自分の理性を使う勇気を持て)」とカントは教えた。

「勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である」とエーリッヒ・フロムは力強く断言した。

ニーチェショーペンハウアーもごちゃごちゃと、まあ、いろいろと言っている。

アドラーは自分のスタンスを崩さなかった。

勇気を持っていた人々の、その根っこには、常に他者への愛情があった。

 

 

 

本当に他者がいない空間に時間は流れない。

時間が流れない夜、電話をする相手が、誰か欲しい。