井戸の底で実験室

天才になるという欲望を挫折したので、凡人として生きる方法を模索している。

なんでもない日23

悩みすぎて全てがどうでもよくなるとメンタルの調子が飛躍的に良くなるのは、他人の眼差しが自分の内側からきているイメージだというのに気づくからなのだろうか。頭の中で、投げつけられた悪意を反復してしまい、それに対して膨大な反論を延々と続けている妄想が燃えている。バッドエンド主義者なので勝ち誇った気分にはなれず、頭のなかの人々はいつも私に白い目を向けてくる。私の妄想はいつも妄想のなかでやり過ぎる私を軽蔑する。捻れた自己嫌悪。正論と言葉の暴力で相手を潰すことを悦ぶ自分への侮蔑だ。
ニコニコするのに疲れ、謝るのに疲れ、礼を言うのに疲れた。ので全部止めてみた。社会人失格と言われてもどうでもいいこの方が楽である。


明日にはこの感覚を忘れて、また辛い1日に戻っているのだろうか。

なんでもない日 20

パケットやプロトコル自体が好きというわけじゃないが、それに興味はあるのです、と言えずにハイハイと答えてしまった。意識高い系クズだから概念にばかり興味を持ってしまい、実践がおろそかになる。

なんでもない日 19

 努力家が嫌いだ。といっても自分の世界で粛々と仕事をしている人間は尊敬するし、素敵だ。対象に心が引っ張られるままに動いている人は眺めていて気持ちが良い。けれど、周囲に認められるために努力する人間ほど醜いものはない。

 対価を求めることに罪悪感があるのだろうか?

 いや、違う。対価を求めて努力するのは素晴らしいと思っている。結果を求めて努力するのは良い。ただ、生存を脅かすレベルの生活から抜け出すために努力をしろと言う人間や、俺に認められるために努力しろと言ってよこす人間に、吐き気をもよおすレベルの醜悪さを感じるのだ。クソな努力家連中は、努力できないやつは死ねと言う。こういう輩にはぜひ報われない努力に歯ぎしりしながら落ちていって欲しい。

 なんだかんだで自分は努力家で、しかしから回ってばかりで、努力というやつによって結果が出たことが無い。脇目も振らずに何かに熱中している瞬間が楽しくて、はかどる。でも、それが努力として認定された瞬間に、とても嫌な気分になる。努力という宗教に加担した気分になる。

 

 努力するとかしないとか、そんなことを頭から吹っ飛ばして、楽しいことだけしたいのに。ほんとうは。